人形に見る理想像とありのままの姿

ーバービー人形等の多様性や魅力

Introduction (the full text in Japanese continues below (日本語の本文が続きます)):

米国社会を構成する様々な人を反映し、最近どんどん多様になっていくバービー人形。下記の投稿では、バービー、日本のリカちゃん、シルバニアファミリー、昔の人形(ひとがた)やお雛様などを取り上げ、人形の様々な役割(コミュニケーションツール、インスピレーションを提供するおもちゃ、自己投影をする相手など)について考えてみました。

“Dolls: Another Version of Ourselves”

This Japanese blog post celebrates the recent growth in diverse Barbie dolls (including body type, skin color, and gender), which better represent the U.S. demographic. I also discuss other dolls (Licca, a Japanese equivalent of Barbie; Sylvanian Family, a collection of animal figurines; and traditional Japanese hina dolls), exploring the many roles that dolls have, including as communication tools and sources of inspiration.

LGBTQのコミュニティを支援します、という言葉とともにバービーの公式インスタグラムに投稿された様々な人形。

近年の米国では、 小説映画やテレビ番組広告政治など、あらゆる分野においてrepresentation (実社会における多様な人々が各分野においてしっかりと反映されていること)が話題になっています。「白人だらけ」「男性ばかり」ーそういった批判を受けては進歩を遂げることの繰り返しです。

その一環として、子供が幼い時から触れる人形については、バービー人形が大きく進化しています。人種、体型、職業などが徐々に多様になり、その変化がメディアでも頻繁に取り上げられています。ありのままの社会をより忠実に表すべく、変化していると言えるでしょう。私たちがバービーや他の人形からどんなインスピレーションを受け、人形にどのように自己を投影し続けているのかを考えてみました。

バービー人形の変革

ハワイで子供時代を過ごした私は、学校や日々の生活でアジア系の人々に囲まれて育ちました。童謡のテープや童話の本など、両親が日本から取り寄せてくれたものもとても多かったのですが、何もしなくても、日本を含むアジアの文化に簡単に触れられる環境でした。他方、 ドラマ、映画、小説など、米国本土から来るエンターテインメントにおいては、圧倒的に白人が主人公で、ハワイにおける日々の生活とはかけ離れた社会を描いていました。バービー人形も、(実際には既に黒人のものも出ていたようですが)おもちゃ屋さんや友人の家で目に入るものは、背が高くて細い金髪碧眼の女性のみでした。

それから30年が経った今、バービー人形は驚くほど多様になっています。 多様性に関するバービーの特設ページによれば、現在35以上の肌の色と9つの体型のバリエーションがあるそうです。 職業やジェンダーなど、いろいろな形の多様性がありますが、古くから発達していた分野からごく最近変化のあった分野まで、時系列順に並べると、米国の社会における各時代の変化をとてもよく反映していることが分かります。

コロナ禍でマスクをしつつ、Black History Month(黒人歴史月間)の2月にデモに参加する人形たち(左から二人目は白斑のある人形)。称賛しているコメントが多い中、「こういった活動には白人のバービーやケンも参加しなくては意味がない」と言う指摘も。

多様性に強い関心がある私としては、こうした選択肢の広がりがとても嬉しいです。もちろん、こういった変化の裏には商業的な理由がありますし、「少し進歩があったとしても、バービーは所詮きれいという理由だけで称賛される、典型的な『女の子のためのおもちゃ』であり、女性にとって大きな飛躍とは思えない」「子供の頃丸かった私がふっくらしたバービー人形を人からプレゼントされたら、逆に絶望しただろう」(それぞれ筆者訳)といった批判もあります。また、先日別の投稿で、「人型の絵文字をどれほど作り続けてもきりがなく、作れば作るほど、そこに自分の姿を見い出せない人を失望させる」と書きましたが、人形についても似たようなことが言えるでしょう。 ただ、全体としては、よい方向に進んでいると思います。

人間ではないシルバニアファミリーの魅力

私は本来、そこまで人形に興味がなく、子供の頃も、人からいただいたジェム(当時放映されていたアニメの主人公で、ロック歌手兼レコード会社の社長)の人形を持っているだけでした。通常はおとなしい社長が時折派手な歌手に変身するということで、服も二セットあり、 今考えれば、アーティストとビジネスリーダーと言う二つの仕事を持つ女性はかなりかっこいいと思います。ただ、日本やハワイに縁のない白人だからか、興味のある職業でなかったからか、当時はそこまで感情移入できませんでした。

私は人間よりも動物に惹かれ、シルバニアファミリーがとても好きでした。小さな家具やお皿のセットを徐々に買ってもらって集めては、クマやウサギの一家で遊んでいました。シルバニアファミリーのウェブサイトは、「自己投影できる多彩なキャラクターたち」と遊ぶことが「人と関わるコミュニケーション力を豊かにする」としていますが、私はそれが適度な投影だと思います。つまり、 動物ですので、人間である自分と肌の色や体型等を比較して落ち込んだりする心配はありません( 私は、人型の絵文字よりもピトグラムの方が、人種等を超えて皆が共感できると考えていますが、それと同様です )。また、違う種類の動物が次々に登場し、共生しているシルバニアファミリーの世界は、多様性への意識も育むように思います。

ただ、今再考すると、さらなる進化の余地はある気がします。たとえば、主に日本の子供が対象であるだろうにもかかわらず、シルバニアファミリーの服装、家、街並み等は皆西洋のものなので、なんとなく欧米中心で、日本らしさがあまりないのが残念です。また、「ファミリー」というブランド名からして家族の大切さを示している半面、セットとして売られている各ファミリーにはお父さんとお母さんが一人ずついて、子供も親と同じ種類の動物であるようです。シングルペアレントの家族、お母さんが二人いる家族、動物の種類が混じった家族などはないため、実世界のいろいろな家族の形を反映したい場合には、複数のファミリーを買って組み合わせるしかなさそうです。

数年前にデパートでシルバニアファミリーの特別展に通りかかり、懐かしくて等身大(?)のショコラウサギファミリー一家とパシャリ。気付けば後ろには5歳くらいの女の子が順番を待っており、恥ずかしかったです💦 (2019年12月、新宿小田急デパートにて)

リカちゃんと解釈の強み

日本の人形で一番知られているのはリカちゃんでしょう。趣味がファッションやお菓子作りということで、どのリカちゃんもお洒落でおしとやかなイメージです(スポーツも趣味だそうですが、あまり行動が伴っていません)。バービーに比べるとバラエティが少なく、多様性と言う意味でそこまで進化がないようです。

他方、リカちゃんのイメージを覆す面白い試みをされている方がいます。ある20代の会社員の女性がずぼらなリカちゃんの写真や動画をインスタグラムに挙げており、それがとても話題になっています。NHKがインタビューしたところ、その女性は「自分がリカちゃんだったらどんなんだろう、自分を投影してみようと思った」そうです。また、「家の中くらいこんなんでもいいじゃんって自己肯定感を高めている」とも語っています。私も各投稿にとても共感し、毎度細かいインテリアに感嘆しています。人形そのものは変わっていないのに、服装や周囲のもので解釈を変えることにより、ありのままの世界を示しています。だらしないリカちゃんは、 多様なバービーよりもさらに親しみやすく、温かみのある人形に見えてくるから不思議です。

数ある「現実を生きるリカちゃん」の投稿の中でも、私が最も共感したものの一つ。

人形への投影

人形は、少なくとも日本では、元は自己を投影するものでした。病気等を避けるため、自分の災厄を人形(ひとがた)に託して川に流したのがお雛様の起源であるというのは有名な話です。神事においては、自分の代わりにお祓いを受けてもらうこともできます。コロナ禍を受け、鶴岡八幡宮などは、自分でお祓いができるように、紙の人形(ひとがた)と、それを納める箱を常時設置しています。

今、鶴岡八幡宮では茅の輪をくぐり、人形(ひとがた)を納めることができます。(2020年2月)

人形(ひとがた)は人形(にんぎょう)になりましたが、今でも私たちはそこに自分を投影しています。米国の非営利団体「A Doll Like Me」は、注文を受けて、多様な子供たちと同じ姿の人形を作っています。同団体のフェイスブックのページは、皮膚や四肢などが他人と異なる子供が人形を抱えて微笑む写真でいっぱいです。 人形の作者である女性は、「人形は、ストレスの多い状況に子供が対応するときに助けてくれますし、何より、子供に自信を与えます。そのためにも、人形は、彼らを愛してくれる子供たちに似せて作られるべきなのです(筆者訳)」と書いており、人形の料金を取らずに寄付金だけで経営を行っているようです。

同時に、人形の発達を受け、私たちはいつの間にか、人形の姿からインスピレーションを受けるようにもなりました。人が人形に投影していたのが、人形から人へも投影するのです。昔の人が病を託していたお雛様は、今では少女の成長を祝い、結婚や家庭を象徴するめでたい道具となっています。(素晴らしい伝統ですが、これまた、明確なジェンダーロールや結婚に対するプレッシャー等が今後問題になって、変わりゆく可能性はあると思います。)

ウエストが恐ろしく細かった昔のバービーは、少し強制的な理想像でした。今のロールモデルのバービー人形は、実在の大人に似せているので、ある意味ありのままの姿ですが、同時に、将来を夢見る子供にとっては理想像でもあります。 また、ずばらなリカちゃんを見ると、同じ人形でも、環境や服装をどう変えるかによって、ありのままと理想像の間を行ったり来たりできることが分かります。

いずれの場合も、人形はコミュニケーションツールだと言えるでしょう。人形の作者、人形を買って子供にあげる大人、社会の風潮などがすべて織り交ざって、人形をもらう人に対して、各々のメッセージを作っています。「こうなったらいいよね」、「こんな夢も君なら実現できるよ」、そして、「ありのままの君でいいんだよ」、と。

小さなシルバニアファミリーにも、さらに小さな人形(写真右下)が出てきます。ヒツジの子供がウサギの人形を持って育つとどうなるか、考え出すと興味深いです!

今の社会は、どんどん自分らしさを前面に出す風潮となっており、そのため、人形にも多様性が反映されていると言えます。全体として、日本の人形はバービーをはじめとする米国のものに遅れていますが、今後状況は変わっていくと期待しています。また、ずぼらなリカちゃん、車椅子に置かれたバービー、家族が混ざったシルバニアファミリーのように、出来合いのものを買ったとしても、そこから先の解釈は、私たち自身が変えることができます。

人形を見た時、私たちは、今の自分、もしくは将来なりたい自分を無意識に探してしまいます。常に共感したい気持ちでいっぱいで、自分との共通点を見つけた時には、思わず嬉しくなってしまいます。もし今後誰かに人形を買う機会があれば、その瞬間に気に入ってもらえるかだけでなく、どうすれば長期的に心が休まる空間を提供し、自信やインスピレーションのリソースとなってもらえるかも考えたいと思います。

Announcing “Shiori Communications”

Introduction:

This bilingual post is an announcement about my new company, “Shiori Communications, LLC.” I also look back to the past year, which, despite COVID-19, was an overall success thanks to the wonderful support of friends and mentors.

この投稿では、新しく設立した会社「Shiori Communications, LLC」をご紹介するとともに、コロナ禍においても、友人やメンターの温かい支援のおかげでお仕事をいただけた2020年を振り返ります。英語の本文の後に日本語が続きます。
Plum blossoms in Tokyo–blooming a little early, they seem like symbols of hope for the new year! 少し早く咲いている梅の花は、新しい年に向けた希望を示しているように見えます。

Happy New Year! While the first two weeks of the year have already been crazy and horrible due to the events at the U.S. Capitol, I am hopeful that 2021 will improve going forward. I hope I can play a small role in that by facilitating communications between American and Japanese citizens through my new company.

2020 in Review

A year ago, I was filled with trepidation and excitement. I had just quit my job at the U.S.-Japan Council, ready to try interpreting and translating full-time. I wasn’t sure if I could even cover my rent, but for years, I had wanted to try working on my own. I was determined to give myself at least a year, and see where that would take me.

That year happened to be 2020–one of the most unusual and challenging years for everyone around the world. For me, all interpreting jobs (which traditionally were mostly done in person) came to a screeching halt with COVID-19. For a few weeks, I questioned my decision to go independent as the very industry I was trying to commit to was shaken to the core. With borders closed, I was physically cut off from my parents and boyfriend in Japan, and for the first time in years, felt sad about living alone. Then my former boss passed away, affecting me more deeply than the pandemic because of its permanence. As I ruminated over the words of gratitude, respect, and farewell that I will no longer get to convey to her, the sense of loneliness worsened.

But thanks to the kind support of friends and mentors, things got better. Many friends encouraged me through this blog, emails, or social media. Many gave me translating, editing, or writing opportunities, connecting me to their colleagues and acquaintances, or sometimes even creating jobs. From there, I got to take on entirely new types of jobs in English/Japanese communications, including teaching interpretation, subtitling videos, summarizing conferences, and translating music albums. I was only able to survive because of the wonderful people around me, and am incredibly grateful for the support I have received.

Remote interpretation also became more common, and I had the opportunity to work on a wide range of projects, from a military conference with 20+ countries (and 11 languages!), to a symposium of businesses based in Kansai, to a series of meetings among 20+ Japanese and American universities on student exchange, to an international conference on trademarks. Learning how to navigate various virtual interpretation platforms and other rapid changes in the industry became much easier thanks to regular online meetings with other interpreters. The biggest lessons of COVID-19 for me were: the importance of personal relationships, the value of positivity, and the need to adapt quickly to the changing world.

Although I became very busy towards the latter half of the year and could not write as much, I was also encouraged by the positive response to some of my blog articles, including this one on Black Lives Matter. I look forward to prioritizing writing in the future, and hope to provide more information that’s insightful and interesting.

A New Beginning

As 2021 begins, I am happy to announce that I recently established a company called Shiori Communications, LLC. The reason behind registering an LLC is that I wanted to facilitate better relations with clients, build a web presence (a website is coming soon), and be better about posting updates. It is called “Communications” because I want my work to go beyond differences in language, and truly strengthen mutual understanding by digging deep into cultures, customs, history, and more. I believe that the past four years, culminating in the recent events at the Capitol, show that communications that combat biases and false information is more important than ever. While it’s a tall order, aside from continuing to focus on interpretation and translation, I also hope to write professionally in both languages, discussing current events when appropriate, to bring people closer together.

At first glance, it may seem like I simply tacked on my first name to my company. But I believe it’s an apt name because “Shiori” means “poemweaver” in Japanese–something I’ve always felt very proud of as an aspiring writer. After searching for a memorable and meaningful name for months, I realized that what my parents gave me might be a great way to show my intent to connect the U.S. and Japan through language. By linking various individuals (connecting dots horizontally and vertically), be it through interpreting, translating, or writing, I hope to ultimately weave an even stronger bond between my two home countries. More information to come soon!

With the certificate issued by Virginia, where my company is based.  バージニア州で会社を登録しました。

「Shiori Communications」について

明けましておめでとうございます!今年は、米国議会議事堂への乱入を含め、年始からひどい出来事が続いていますが、今後は状況が改善していくと信じています。日米の人々のコミュニケーションを円滑にすることを目指す会社を通じて、私も、よりよい社会の構築に微力ながら貢献したいと考えています。

2020年を振り返って

一年前、私は将来に対する不安と期待が入り混じった気持ちで新年を迎えました。米日カウンシルの仕事を辞め、通訳・翻訳の仕事をフルタイムでやってみたいと思っていました。家賃を超える収入が得られるかどうかも分かりませんでしたが、何年も前から独立することを夢見ていたため、まずは一年、一人でやってみようと考えたのです。

その一年というのがたまたま2020年でした。これが世界中の人々にとってどれほど大変な年だったかは言うまでもありません。コロナにより、これまでほとんど対面でしかなかった通訳の仕事が急に途絶え、私は、このタイミングで独立を決意し、根底から揺らいでいる通訳業界に入ろうとしていることが正しい判断だったのか疑問に感じたりもしました。国境が閉ざされ、日本にいる両親や彼と会えなくなって、一人暮らしであることに何年かぶりに寂しさを感じました。さらに、前の上司が亡くなり、その永久の別れがパンデミック以上の衝撃となりました。もう伝えられない感謝の言葉や尊敬の念、これまでの思い出や彼女から学んだことが次々に頭に浮かび、孤独感はさらに強くなりました。

でも、友人やメンターの温かい支援のおかげで、状況は改善しました。このブログやメール、SNSを通じて、多くの友人が私を励ましてくれました。翻訳や編集、執筆の機会を与えてくれたり、同僚や知人を紹介してくれたり、時には仕事を一から作ってくれたりもしました。そこから私も、英語と日本語のコミュニケーションの分野でこれまでとは異なるタイプの仕事もいただけるようになりました。通訳を教えたり、ビデオに字幕をつけたり、会議の要約をしたり、音楽のアルバムの翻訳をしたり、といったことです。

遠隔通訳も一般的になり、20カ国以上(言語は11カ国語!)が参加する軍事会議、関西を拠点とする企業のシンポジウム、日米20以上の大学間の学生交流会、商標の国際会議など、様々な場で通訳を行う機会に恵まれました。通訳の先輩らとの定期的なZoomミーティングのおかげで、いろいろな通訳プラットフォームの使い方や業界の変化について学ぶこともできました。コロナ禍で学んだ最大の教訓は、人間関係の大切さ、物事をポジティブに受け止めることの重要性、変化する世界に素早く適応する必要性です。

今年の後半は忙しくてあまり文章が書けませんでしたが、Black Lives Matterに関するものをはじめ、ブログ記事に対する反響を得られたことにも励まされました。今後は執筆により力を入れて、興味深い情報や洞察をもっと書きたいと思います。

An Etsy commercial featuring a girl named Shiori. This aired on CNN during the presidential elections, and I find it all the more meaningful that people saw the value of diversity during such a difficult time. 珍しい名前を持つ人へのギフトも特注できますよ!と言う宣伝に、Etsyが「しおり」の名前を使ってくれました。CNNで大統領選挙の時期に流れたそうです。どのシーンにも深く共感しますし、日本人・日系人の名前が選ばれたこともすごく嬉しい!

新たな始まり

2021年が始まるにあたり、この度、Shiori Communications, LLCという会社を設立したことをご報告します。LLCを設立した理由は、クライアントとの関係をより円滑にし、インターネットを通じてより多くの人に活動を知ってもらい(近日中にウェブサイトを開設します)、もっと頻繁に近況について書きたいと思ったからです。「コミュニケーション」という言葉を選んだのは、言葉の違いを超えて、文化や慣習、歴史的背景なども踏まえた上で、相互理解を深めていきたいと考えているからです。議事堂乱入でついにピークに達した過去4年間の状況は、偏見や誤った情報をなくすコミュニケーションがかつてないほど重要であることを示していると思います。なかなか難しいことかもしれませんが、通訳や翻訳を引き続き重視しつつも、両言語で執筆も行い、場合によっては時事問題も取り上げつつ、さらに人々の距離を縮めたいと考えています。

一見、自分の下の名前を付けただけの安易な会社名だと思われるかもしれません。でも、「詩を織る人」という名前は、書くことが好きな私の誇りであり、この会社にもふさわしいと思います。活動内容に関連する覚えやすい名前を探して何ヶ月も悩んでいましたが、言葉を通じて日米を繋げたいという私の思いを示すには、結局、両親がくれた名前が最良かもしれないという結論にたどり着きました。通訳、翻訳、執筆などを通じて、様々な人と人をつなぐ(縦横に点をつなぐ)ことで、両国の絆がさらに深まっていくことを願っています。また追って詳細を報告します。

Visualizing data without misleading or stereotyping

Introduction:

In the wake of the presidential elections that revealed a nation that remains highly divided, this bilingual post explores how we might visualize data in a way that doesn’t mislead audiences or stereotype different types of people.

今月初めに行われた大統領選挙では、米国でまだまだ分断が続いていることが明らかになりました。この投稿は、誤解を招かず、ステレオタイプを強化しない形でいかにデータを可視化できるかについて模索しています。英語の本文の後に日本語が続きます。

Earlier this month, we witnessed one of the most dramatic presidential elections in history. These past four years, the U.S. had been unrecognizable to me. As a woman, quasi-immigrant, and minority, I felt that I was unwelcome on all three counts. I was in a state of disbelief as racist remarks and actions were normalized, and many laws that I had been proud to associate with the U.S. were rolled back one by one.

It is a huge relief to have a national leader who seems rational, calm, and mindful of the growing diversity of the U.S. demographic. I am ecstatic that we now have the first woman vice president–who also happens to be Black, Asian, and the daughter of an immigrant. That fact alone allays my concerns about criticism over the president-elect’s treatment of women.

A Divided Country

But as we all know, this was no swift victory. The “blue wave” touted by pundits never came. Instead, we had a handful of swing states that flipped, one by one, from slightly red to barely blue over the course of four days. I kept taking screenshots of the close race (at one point a difference of 1,000 votes, or less than 0.1%!) and sending it to friends. I pored over the news analyzing the developments in each state, from which counties’ votes were being counted first, to why Nevada seemed to take its sweet time, to legendary figures like Stacey Abrams and the late John McCain affecting the outcome in Georgia and Arizona.

The state of the swing states as of the morning of Nov. 6. With 99% of votes reported, Georgia had a difference of 1,000 votes, or less than 0.1%. Screenshot from Google based on results compiled by the Associated Press.

Maps

With all the election results readily available online, it has been really fascinating to be able to zoom into any state and look at the results in each county. Maps like this one (for Virginia) show islands of blue cities in a sea of red.

Election results by county in Virginia. Screenshot from Google based on results compiled by the AP.

But this year, the way maps show election data seemed to undergo an important and fascinating shift. With the slogan “Land doesn’t vote; people do,” several maps came out to show votes in proportional circles based on how people voted in each county, as opposed to coloring in the entire area of each county. Since fewer people live in rural areas, this was a much more accurate representation. Based on how much recognition these newer maps received, I suspect future elections will be represented in this way.

Either way, the fact remains that we are a deeply divided country, mostly reflecting whether we live in urban or rural areas. So how do we heal as a nation? One way, I think, is to avoid stereotyping others as much as we can.

Visualizations that Reinforce Stereotypes

The below illustration is called “What it means to be a typical Democrat or Republican, based on everyday items.” A translation of the words that appear throughout the illustration are in the chart below (all translations are my own).

From this website of The Asahi Shimbun. I added the numbers in purple for the translations provided below.
DemocratsRepublicans
Prius; VolvoCarsHummer; Porsche
MSNBCTV stationsFOX
Comedy; RomanceMoviesWar; Action
Jazz; RapMusicCountry
Tennis; SoccerSportsRodeo; Motor Races
Women: Silky smooth; Men: Long with beardsHairstyleWomen: Voluminous; Men: Short and neat
CasualAttireBusiness Suits
Sushi; VegetarianFoodFried Chicken; BBQ
StarbucksBeveragesCoors Beer

This was apparently first published in The Asahi Shimbun about 10 years ago. It came up on its website this past March (with the explanation that “trends have not changed that much since then”) as part of an article that helps young job applicants / recent college graduates understand current events.

When I first saw this, I couldn’t help but laugh. It’s wonderful that Japanese audiences are paying close attention to the U.S. elections. I think visuals are very important, especially to a younger audience. But I also think we need to be careful not to generalize too much–precisely because we are shaping young minds.

To start with the basics, the data comes from mixed sources. This illustration is apparently based on “data from advertising and research firms, as well as the voices of American voters.” That’s at least three sources that probably use different methodologies, samples, dates, and collection methods. While I don’t expect the entire methodology to be part of the picture, I’d at least like to know the names of the companies that collected this data.

The illustration is full of points I want to ask more about. For example (and I am also making big generalizations here), the “Republican” category seems to combine several types of people: the military type (short, neat hair), the wealthy type (Porsches), people living in rural areas (fried chicken; country music), etc. More minor examples show weird combinations too, like Starbucks (likely coffee) with sushi for Democrats. It is very confusing because all these mixed data is illustrated in the same picture.

And while the variety in music tastes and hairstyle is certainly interesting, I don’t see how it makes a big difference. The only thing I thought was truly relevant here is the type of media consumed (FOX vs. MSNBC), which other sources also indicate. I would rather know about the difference in opinion on topics like education, immigration, and religion. And, at least in terms of food, there’s evidence that we can’t associate them with political thought: The New York Times recently published a quiz asking readers to look at photos of fridge contents and guess whether they belong to a Trump supporter or Biden supporter. As of today, readers have made 25 million (!) guesses, and were correct 52% of the time–it’s 50/50, even with that huge sample.

Caricatures

To me, the most egregious point that could be corrected is that all four people depicted here are white. According to data compiled by the Pew Research Center, as of 2019, 40% of registered Democrats were non-white (even back in 2010, when this illustration was made, it probably would have been more than 36% (2008)). The Democratic party clearly states that “diversity is a strength,” and its support for immigrants and minorities is clear. So it seems especially odd to represent 100% of the Democrats here as white people.

But I also see how it’s extremely hard to visualize people “correctly.” Take, for example, the controversial NHK video that attempted to explain the BLM movement in June. If Black people or other minorities were added to the Asahi Shimbun visualization of Democrats and Republicans, would it have made things better? I doubt it, because it’s hard to illustrate someone without resorting to caricatures, especially if you do not know them well.

A screenshot (from here) of the controversial NHK video that illustrated Black people who wore tank tops and Afros, lighting the city on fire, and saying that they were resorting to violence because they were angry about the income gap (with no mention of police brutality)

And the truth of the matter is that there’s an inherent difference in illustrating someone who is already in the majority versus someone who is not. The former has already been drawn in many different ways, and one additional illustration is just that–a collection to add to many different images that readers may have in their head. It won’t skew the audience’s minds in either direction. Someone who is rarely drawn, on the other hand, automatically becomes a representative of their entire group because they are rarely seen. It’s similar to how movie characters used to be caricatures. The token Asian characters in older films were stereotypes (Mr. Yunioshi in Breakfast at Tiffany’s or Long Duk Dong in Sixteen Candles), whereas now we are seeing diverse backgrounds and personalities (from Crazy Rich Asians to The Farewell) because there are more films and more characters.

Visualizing Content in Better Ways

A lot of the data in the Asahi Shimbun illustration is interesting, even if not necessarily relevant. I think this could be improved by 1) listing its sources by name, 2) not showing people in the illustrations, and 3) instead of showing the top one or two in the same big picture, perhaps choosing the top five in each category and turning them into separate charts. Illustrations are so powerful, helping us understand and remember things better–but without the full context, they can also be misleading.

Media have to work with quick deadlines, and it’s easy for me to be an armchair critic. But as people pointed out with the BLM video, I believe there are ways to find consultants. On a deeper level, I believe we all need to have a better understanding of each other, so that we don’t stereotype others, and know when we are about to create caricatures.

These take long conversations, better education, more reading, stronger media representation, and so much more. But to circle back to the original discussion, at least we know that we are politically divided. At least we are beginning to learn, in the past six months, how much pain Black people have been experiencing. I hope that we can strive to understand each other. After this election, the only direction to go is onwards and upwards.

ステレオタイプを強化しない形で情報を可視化するには

今回の大統領選挙では、大好きな米国がようやく少し戻ってきた気がします。2016年の選挙以降、移民、日系人、そして女性として、ずっと緊張や不安を抱えてきました。国のリーダーがアジア人に差別的な言葉を使ったり、移民に対する大統領命令を発したり、女性蔑視の発言をするたび、心身ともに疲弊し、いつも少し怯えながら過ごす日々でした。今回、バイデンが大統領となって心から安堵しましたし、初の女性・黒人・アジア系の副大統領が誕生したことを、本当に誇りに思います。

ただ、選挙の結果を見て、国の分断がまだこんなにもひどいことに驚いたのも事実です。スイングステート(激戦州)では、最終的に民主党が勝ったところが多いものの、一時期は数千票、0.1%以下の僅差だったりもして、結果が分かるまでの数日間は本当にやきもきしました。地図を見ても、驚くくらい、都市部と田舎とで政党が真っ二つに分かれています。これからこの分断をどう乗り越えていくかが大きな課題となります。

ステレオタイプを強化する恐れのあるイラスト

そんな時にたまたま、上記の「身近な品々に見る『民主らしさ』『共和っぽさ』」というイラストを友人が送ってくれました。もとは10年前に朝日新聞に掲載されたのが、最近になって「今でも傾向は変わらない」と言う解説とともに浮上したようです。

これを最初に見た時、ツッコミどころが多くて笑ってしまいました。興味深い視点ですし、分かりやすく可視化している姿勢が素晴らしいと思います。でも、可視化するからこその危険性も多分にあると思います。

まず、情報源は「広告会社と調査会社のデータおよび米有権者の声」とありますが、そうすると、少なくとも3つの情報源から得たデータとなり、それぞれ異なるサンプル、日程、調査方法であると想定されます。それをすべて一つの絵にまとめていること自体少し不思議だと思いますが、そうであれば、少なくとも広告会社や調査会社の名前を掲載した方がよいかと思います。

細かい点を見ますと、たとえば「共和党支持層」は、いろいろなタイプの人たちが混じっているように見えます。それこそステレオタイプに基づいて例を挙げると、軍人(「整えた短髪」)、富裕層(「ポルシェ」)、田舎に住む人(「フライドチキン」「カントリー」)がすべて一緒になっています。民主党の方でも、スターバックス(のおそらくコーヒー)を寿司と飲む、という不思議な構図になっています。これも、いろいろな情報源から集めたデータが同じ絵にあるから違和感があるのかと思います。

共和党・民主党支持者が視聴するメディア(「TV局」)はとても重要であり、FOXとMSNBCが両極端にあることは他でも立証されていますが、映画や音楽など、それ以外の点に関しては、それほど重要だとも思えません。むしろ、教育や移民政策、宗教等に関する考えを取り上げた方が興味深い気がします。さらには、少なくとも食べものに関しては、政党との関連性が低いことが分かっています。最近ニューヨーク・タイムズ紙は、冷蔵庫の中身の写真を見て、トランプ支持者かバイデン支持者のものかを読者が当ててみるというクイズを発行しました。現時点で読者は2500万回(!)推測してきましたが、正解率は52%。それだけ巨大なサンプルでも、まだ五分五分なのです。

人物のステレオタイプ

私が最も残念だと思うのは、この絵に描かれている人が4人とも白人だということです。2019年の時点で、登録している民主党支持者のうち、40%が非白人でした(このイラストが描かれた2010年でも、36%(2008年)以上だったと思われます)。また、民主党は「多様性は強みである」と明言しており、移民やマイノリティを支持していることも明らかです。したがって、民主党支持者の100%が白人として描かれているのは残念なことだと思います。

同時に、「正しい」形で人を可視化するのは大変難しいことです。6月にBLM運動を動画にし、物議を醸したNHKのビデオがよい例だと思います。黒人や他のマイノリティをこの朝日新聞の民主党・共和党のイラストに入れたところで、状況は改善しなかったかもしれません。あまりなじみがない人たちを可視化しようとすると、ステレオタイプに基づいた滑稽な絵になってしまいがちです。

多数派の人とそうでない人を描くことには、本質的な違いがあります。前者は既にいろいろな場で、様々な形で描かれており、一枚の新しいイラストは、読者の頭にあるイメージのコレクションに足されるだけであり、これまでの印象を大きく変えるわけではありません。一方、めったに描かれない人は、その人が所属するグループ全員を代表するような形になってしまいます。これは、映画の登場人物にも言えることだと思います。古いアメリカ映画のアジア系の登場人物は、ひどいステレオタイプに基づいていましたが(『ティファニーで朝食を』のユニオシ氏、『すてきな片思いの』ロンなど)、最近はアジアを中心とした映画や登場人物が増えてきているおかげで、多様な背景や個性が描かれています(『クレイジー・リッチ』や『フェアウェル』など)。

より良い形での可視化

朝日新聞のイラストには、興味深いデータが満載です。もし改善するとしたら、1)情報源の会社名を明記し、2)人物は描かず、3)上位1~2位だけを同じ絵の一部として描くのではなく、たとえば各カテゴリーのトップ5などを別々の表にして出す、といったことができると思います。イラストは、物事を理解し記憶する上で素晴らしいツールとなりますが、全体像が見えないと、誤解を招くことにもなりかねないと思います。

メディアは締め切りに向けて急いで作業を行わなければなりませんし、私がこうして後から批判するのは簡単なことです。でも、BLMのビデオに関して他の人も指摘したように、コンサルタントなど、何かしら事情に詳しい人に話を聞いて確かめることはできたのではないかと思います。より長期的な話で言えば、こういったステレオタイプを行わないように、私たちそれぞれがお互いへの理解を深める努力をすべきなのかと思います。

そのためには、対話を続け、教育を改善し、より多くの本を読み、映画・テレビ・本等における登場人物をより多様にしたりと、様々な課題があります。しかし、私たちは少なくとも、政治的な分断が続いているという事実、黒人の人たちが今も苦しんでいるという事実などを学びました。今回の選挙を受け、私たち皆で一緒に前に進み、相互理解を深めていけることを願っています。

Awkwardな私と多くのワード(訳語)

カエサルの言葉「来た、見た、勝った」をもじって、I came, I saw, I made it awkward(来た、見た、微妙な雰囲気にした)と記載されたマグカップ。

最近出版されたばかりのオバマ元大統領の回顧録『A Promised Land』で、オバマ氏が鳩山元首相のことをawkwardと呼んでいることに関し、日本で様々な報道が出ているようです。Awkwardという言葉の訳がメディアによって異なるため、どれが正しい訳なのかということと、オバマ氏の評価が好意的か否かといったことも報じられています。訳しにくい言葉にまつわる興味深い話な上、awkwardという言葉には個人的な思い入れもあることから、自分の経験も交えて、考えをまとめたいと思います。

鳩山氏に対する評価の訳

オバマ氏の回顧録における文面について、既に多くの方が素晴らしいまとめをされています。私自身はこの本を読んでいないため、文脈について大きなことは言えませんが、現在報じられている内容に基づいて解釈してみたいと思います。

鳩山氏に関する記述は、a pleasant if awkward fellowとあります。A pleasant but awkward fellowではないにもかかわらず、多くのメディアで、if をbut と同じように扱って、「感じはよいが」と始めてからawkwardの訳(後述)を入れています。If とbut が違うと、かなり意味が異なります。既に翻訳者の鴻巣友季子さんが指摘されているように、ifを使ったこの文面は、「ポジティブな表現に着地」しているのです。

ここはカンマが省略されており、本来は、a pleasant, if awkward, fellowと言う文面になると私は考えています。この場合、カンマが両側にあると、括弧と同じ役割を果たし、a pleasant (if awkward) fellowと同じ意味になります。ダッシュを両側に置いて a pleasant–if awkward–fellowとも書くことができます。重要なのは、カンマ、括弧、ダッシュのどれであれ、if awkwardという中身を抜いても、文章がそのまま成り立つということです。つまり、中身の部分は補助的な役割を果たしているのであり、重視されるべきなのはpleasantというところなのです。

おそらく、ここでこの文が終わっていたなら(たとえば、He’s a pleasant, if awkward, fellow. など)、オバマ氏はちゃんと両側のカンマ(または括弧やダッシュ)を入れたであろうと思います。ただ、その後もA pleasant if awkward fellow, Hatoyama was . . . と続き、カンマを何度も入れると読みづらくなるため、省略したのだと思います。

Awkwardな人とは

Awkwardは、英語でかなり頻繁に使われる割には、とても訳しにくい言葉です。本件に関しても、「厄介」(時事通信)、「ぎこちない」(TBS)、「やりにくい」(日テレ)、「付き合いにくい」(共同通信)、「不器用」(朝日新聞鳩山氏自身)など様々な訳がなされています。

Awkwardな人はどういう人かと聞かれたら、私は「人付き合いが苦手な人」だと説明すると思います。一言に訳すと、一番近いのは上記の「不器用」だと思います。「ぎこちない」も近いと思いますが、それは身体の動きや話し方を連想させる一方で、たとえば、なかなか目を合わせてくれない人もawkwardに含まれるため、少し狭義になっているかもしれません。「やりにくい」「付き合いにくい」は、ニュアンスとして正しいのですが、オバマ氏は(実際には個人的な意見にせよ)客観的な言葉としてawkwardを使っているため、ちょっと踏み込み過ぎかもしれません。

一つ明確に言えるのは、「厄介」ではない、ということです。Awkwardな人は無害ですし、迷惑をかけるタイプではありません。他人がそういう評価を下すと、若干上から目線であるだけでなく、「もう少しうまく立ち回れたら楽に生きられるだろうに...」といった、少し憐みの感情が入っています。「惜しい」「残念」といった感じで、全体としては好ましく思っているからこそ出る言葉です。A pleasant if awkward fellowは、「感じのよい人(ちょっと不器用だけどね)」といったニュアンスになると思います。

最初にこの話を聞いた時、言葉を大切にするオバマ氏がなぜわざわざawkwardと言ったのか疑問に思いました。全体として悪くない印象なら、なぜあえてそれを傷つける言葉を足したのか、と。しかし、こちらの記事を見て、オバマ氏が各国首脳をかなり批判していると知り、納得がいきました。回顧録の面白みは、当時考えたことや経験したことを率直に書くことであり、歯に衣着せぬ表現を使って当然なのですよね。

他の首脳に比べると、鳩山氏に対するオバマ氏の評価はソフトなようです。同時に、鳩山氏は相対的に強い印象を残していないとも言えます。たとえば、オバマ氏の各国首脳への評価をまとめたBBCの記事には、日本の首相は登場しません。オバマ氏は、回顧録で、鳩山氏が「3年未満で4人目」の首相であり、「7か月でいなくなった」ことに言及しています。日本のリーダーが誰であれ、存在感は薄かったのでしょう。この数年後、安倍元首相はトランプ大統領と強固な関係を築こうと並々ならぬ努力を重ねましたが、こうした首脳同士の人間関係は、やはり二国間の政治にもかなり影響するのかと思います。

Awkwardという言葉との共存

Awkwardという言葉は、人だけでなく、雰囲気や感情にも使うことができます。たとえば、今付き合っている人と歩いている時に、前の恋人とばったり会って挨拶を交わした場合。後で友人にThat was so awkward! (とっても気まずかった!)とこぼしたりもできるでしょう。または、大企業で新入社員として働き始めて間もない時に、過去にはテレビでしか見ていなかった社長が時折やってきて話しかけてきたら、毎度緊張してしどろもどろになってしまうかもしれません。そういう時も、We’ve spoken three times, but I still feel awkward. (もう三回も話しているけれど、未だに気後れしてしまう)といった言い方ができます。

つまり、誰でもawkwardに感じることはあります。ただ、そういった瞬間が比較的多いのがawkwardな人なのかと思います。オバマ回顧録にまつわる本件が特に私の心に響いたのは、私もawkwardだからです。自分の例に基づいて、この言葉の意味をもう少し考えたいと思います。

私は子供の頃から、一人で家で本を読んだり勉強したりするのが好きでした。相手の言動が予想できないことから、人付き合いには強い苦手意識を感じていました。学校でも、チームワークが必要な理科の実験や皆でやる体育が本当に不得意で、「協調性がない」と先生に言われていました。

大人になった今でも、awkwardな(気まずい)雰囲気を作ってしまうことがよくあります。人数が多い会話では特に、うまく口を挟むタイミングがつかめないこともあり、頭の中で長らく考えをまとめています。ようやくまとまって勇気が出せて、かつちょっとした沈黙が訪れた時に発言するのですが、考えに集中するあまり直前の話を聞いておらず、「とっくに皆が落とした会話のボールを今拾うんですね」と笑われたり、向こうからしたら脈絡がないので「突然どうしたの」と聞かれることもあります。

社交の場で緊張しがちだったり、手先も含めて不器用だったり、といったこともあります。私が住むワシントンDCはネットワーキングが欠かせない町です。人脈を広げるため、誰も知る人がいない立食パーティーに一人で参加することも多いです。緊張で深呼吸をしながら入場しますが、やはり知らない人とのスモールトーク(世間話)は本当にしんどく、「3人に話しかける」という自己ノルマを達成した後は、アペタイザーだけもらって帰ります。そして家に帰って鏡を見てはたと気づくのですが、いつの間にか名札のシールがはがれて髪にくっついていたり、食べ物を服にこぼしていたり。ネットワーキングが苦手な自分をただでさえ反省しているところ、どうも他の人には起きないことが自分には起きるように思え、恥ずかしさでいっぱいになります。Awkwardの極みです。

でも、場数を踏んで、徐々に人付き合いのコツがつかめてきましたし、こういった話を友人にすると、実は似た悩みを抱えている人が多いのだということに気付きました。わざわざ明かさなくてもばれてしまうらしく、以前、会って間もない職場の同僚に Don’t worry, I’m awkward too!と朗らかに言われて大笑いしたのを覚えています。

また、awkwardだからこその強みもあると思います。大人数で口頭で議論することは苦手な反面、じっくり考えて文章を練ることがとても好きです。感受性や想像力が強く、自然の彩やアートを楽しめます。威風堂々とした雰囲気はないかもしれませんが、人間らしく親しみやすいと感じてもらえることが多いように思います。

人と接することが仕事の大きな一部である政治家がawkwardと呼ばれるのは、確かに少し残念なことかもしれません。でも、awkwardであること自体は、本人はとても苦しくても、周りから見れば個性であり、決して悪いことではありません。

スピード重視のメディアの世界で、背景等をすべて踏まえた訳を行うことは非常に困難です。私がこうして後からゆっくり批評するのは簡単だということも認識しています。でも、awkwardは、私がずっともがきながら共存してきた言葉です。人付き合いは徐々にうまくなってきたとはいえ、ちょっとしたズレやタイミングの悪さは、もはや自分の個性の一部として受け入れつつあります。今回筆を執ったのは、そんな大切な言葉について書きたかったからです。

National Donut Day (全米ドーナツの日)に、無料のドーナツをもらえるということで、友人とKrispy Kremeで列に並びました。ショーケースに日本のポンデリングのようなものを見かけてそれを注文したら、単にドーナツの穴が並んでそう見えただけでした。店員さんが袋に入れるところを見て訂正したかったものの、後ろには長蛇の列で、店員さんも忙しそうなので何も言えませんでした。せっかく無料でも、普通のドーナツの6分の1くらいの大きさの穴しかもらえなかった私。こういったawkwardな間違いも、一緒に笑ってくれる友人がいれば恥ずかしくありません!?

通訳・翻訳は試してこそ適性が分かる

Introduction (the full text in Japanese continues below (日本語の本文が続きます)):

この投稿は、バベル翻訳専門職大学院によるウェブマガジン『The Professional Translator』に寄稿させていただいたものです。

今回は「翻訳と通訳の向き不向きや適性」というテーマをいただきました。通訳は本番に強い人が向いており、翻訳はもう少し時間をかけて作業をしたい人が向いている、という点はよく知られています。でも、さらに細かく見ていくと、通訳も翻訳も、分野(外交、法律、文化など)によって仕事の仕方が大きく異なるため、適性もそれぞれなのではないかと思っています。通訳・翻訳に関心のある方は、いろいろと経験してみることをお勧めします。

“Exploring Various Fields in Interpretation and Translation, and Knowing What Makes You Happiest”

Below is an article I wrote for The Professional Translator, the web magazine of a translation graduate school called Babel. The assigned theme was about aptitudes needed for interpretation and translation.

There are well-known, general characteristics: those who like in-person exchanges and travel might be happier as interpreters, while those who like to spend time choosing the perfect words are likely better as translators. But there are also vast differences depending on the field. These include conference interpretation, court interpretation, interpreting on stage at an event, subtitling, and technical translations. I didn’t realize how different these were until I had the opportunity to explore them. In addition, with my love for reading and writing, I initially thought I would be happier as a translator–but ended up being more of an interpreter, mostly because I’ve enjoyed traveling and meeting experts from various fields. To anyone who is considering a profession in interpretation or translation, I recommend taking on a variety of jobs–only then will you learn what truly makes you happy.

通訳と翻訳という二つの職業への適性は、ある程度、人によって異なると思います。しかし、苦手だと思っていたことが案外楽しいこともあるため、自分がどちらに向いているかという判断を行うには、いろいろな経験を積むことが重要だと思います。また、通訳も翻訳もかなり幅が広く、法律や文化など、分野によって求められるスキルが大きく異なるという点も留意しなければなりません。

今の私が通訳者であることを子供の頃の私が知れば、きっと驚くと思います。家で本を読んでばかりだった私は、むしろ、世界中の子供たちに素敵な夢を届ける童話の翻訳者という仕事に憧れていました。通訳に関しては、国連などで大勢があらゆる言語で早口に話すかっこいいイメージがあり、自分にはあまり縁がないと思っていました。でも、ワシントンDCに来てから通訳に触れ、考えが変わりました。世界をより良い場所にしようと志す人たちが各地から集まるこの町で通訳を行うと、微力ながら国際協力に貢献できることに、非常にやりがいを感じます。最初は少し苦手だった人との交流も、今では逆に楽しめるようになりました。職業への適性というのは、やってみなければ分からないのだと実感しています。

通訳者には、人と接することが好き、本番に強い、などといった全般的な特徴がありますが、分野によっても、求められるスキルが異なると思います。たとえば、招聘プログラムの通訳として、日本からの訪問者数名と数週間全米各地をまわる仕事では、自分もよく知らない場所で初めて会う方々を案内し、アポの時間などの詳細にも気を配らなければなりません。幸い、これまで私は温かい参加者にばかり恵まれており、GPSのおかげで迷ったりする問題も起きていません。サクラメントの発電所、移民を支援するマイアミのNPO、アーカンソーの林野庁など、自分では行く機会のない所を一緒に訪ねながら、あらゆる事柄について学び、楽しい経験をしています。

会議通訳としては、ブースで同時通訳を行うことが多いです。一日会議室にこもっているたため、招聘プログラムに比べると、心身ともに人と距離があり、少し事務的です。しかし、緊張した雰囲気の場合が多いですし、聞き取れない言葉があっても話を止められない分、通訳としてのスリルは倍増します。失敗を気にすると、次の話を聞き逃してしまい、さらに間違いが増えます。そういった意味で、ある程度、分からないことや失敗に固執しない楽観主義と、ハプニングがあっても聞き手に支障がないように訳し続ける機転が求められます。

イベントの逐次通訳もまた特殊です。美術や芸術に関する講演では、アーティストの隣で舞台に立つこともあります。普段は黒子の通訳者がここでは注目され、通訳もパフォーマンスの一環となります。話者はもちろんのこと、観客とも目を合わせて、話者が意図したタイミングで観客が感動し、驚き、笑ってくれるよう、分かりやすい表現や言葉を発するテンポに気を配ります。人に楽しんでもらいたいという意思が重要な仕事だと思います。

私自身はまだ経験していませんが、法廷通訳などでは、何よりも正確性が重要になると理解しています。大変なプレッシャーのもとで証人の逐次通訳を行い、聞き取れない言葉や意味が不明瞭な言葉に関しては聞き返すことができるものの、まず判事の許可を取らなければならない、と聞いています。何事にも動じない、慎重な方が向いているかと思います。

翻訳もまた、分野によって適性や好みが分かれると思います。軍事や医療など、専門的な内容の翻訳では、決まった用語や表現に徹しますし、日米関係や社会に貢献しているというやりがいを感じます。字幕翻訳では、一秒間に読める字数が限られていることから、要点を押さえつつ簡潔に内容を伝えるクリエイティビティが求められます。最近、音楽家のアルバムの曲名を訳す機会に恵まれましたが、ぎゅっと意味が凝縮された曲名は詩のようで、ご本人に話を聞く以外にも、曲を聴いて理解するという、普段とは違う感性を使うことができました。どの分野の翻訳にも一貫して言えることは、通訳同様、話し手や書き手の立場やメッセージをしっかり理解して、淡々と事実を伝えるなり、情熱的に訴えるなり、原文と同じ温度で書くことだと思います。

今、コロナの影響で、北米での通訳の仕事はほぼすべてバーチャルになっています。対面での人との出会いや出張という利点が今の通訳にはありませんが、その分、自宅のパソコンで作業ができるという意味では翻訳に近い状況になり、家を離れることができない人にも機会が広がりました。各分野への適性は、やってみてこそ分かるものですし、通訳と翻訳の距離が縮まっている今だからこそ、双方のいろいろな仕事を試してみるよい機会かと思います。

コロナ禍で変わる通訳の世界と、縮まる翻訳との距離

Introduction (the full text in Japanese continues below (日本語の本文が続きます)):

この投稿は、バベル翻訳専門職大学院によるウェブマガジン『The Professional Translator』に寄稿させていただいたものです。

翻訳と通訳の距離」というテーマをいただき、コロナによって通訳業界が大きく変わり、翻訳との距離がぐっと縮まっていることについて書かせていただきました。刻々と状況が変わっていく中で、今後どうなるかは誰にも分かりませんが、変化を前向きに捉え、楽しんで仕事し続けたいと思っています。

“Changes in the Interpretation Industry During the Coronavirus Era, and Similarities with Translation”

Below is an article I wrote for The Professional Translator, the web magazine of a translation graduate school called Babel. The assigned theme was about the distinction between interpretation and translation. I discuss how with the coronavirus, the interpretation industry is rapidly changing and becoming similar to translation in several ways.

Namely,
1. with fewer interpretation assignments, more interpreters are also working as translators;
2. interpretation assignments are now mostly remote, just like translation;
3. since geography is less important now (except for time difference constraints), interpreters are relying even more on their quality of work, expertise, and networks in order to compete with the rest of the world; and
4. now that events are held online, ways to provide virtual multilingual support are growing beyond simultaneous interpretation and post-production subtitles, further blurring the line between interpretation and translation.

Although it’s unclear what the future will bring, I hope to remain positive about these fascinating changes, and continue to enjoy my work.

初めまして、ワシントンDCに拠点を置く、フリーランスの通訳者の岡崎詩織と申します。

翻訳と通訳の距離を考えるにあたり、今ほど素晴らしいタイミングはないと思います。コロナを受けて対面の仕事がほとんどなくなったことから、通訳業界は大きく変わり、翻訳との距離がぐっと縮まりました。時折翻訳に携わる通訳者として、今起きている変化と、それに今後通訳者や翻訳者がどのように対応できるかについて、考えを述べたいと思います。 
  
まず、通訳と翻訳の兼業をされている方は増えているのではないかと思います。今年3月中旬に米国でコロナが蔓延し始めて対面のお仕事ができなくなり、私も通訳の依頼がいったんすべてキャンセルになりました。ありがたいことに翻訳のお仕事に恵まれ、そちらに舵を切ることができましたが、私の周りの通訳者も、今は翻訳に力を入れている方が多いです。

また、遠隔の通訳が可能になったことから、通訳は、翻訳同様、どこでもできるようになりました。5月くらいから、私にも徐々に遠隔通訳の依頼が入ってきました。逐次通訳はどのような電話会議のシステムでもできます。遠隔同時通訳(Remote Simultaneous Interpretation: RSI)はこれまで、専門のプラットフォームで提供されるニッチなものでしたが、コロナで一気に注目されるようになりました。Zoomのウェビナー機能でもRSIが可能になり、クライアントや視聴者にとっても身近なものになりました。ただ、時差という意味で、ある程度の地理的制限はあります。日本と米国東海岸は昼夜が逆転しており、お仕事は大体早朝か夜に入ります。場合によっては、こちらの午前2時や3時に終わるRSIもあり、身体のリズムを整え直すのに何日かかかってしまいます。

地理的な場所がそれほど重要でなくなると、通訳者は、これまで以上に世界中の同業者と競争することになります。ある意味市場が一つになるため、居住地にかかわらず、安価なサービスを提供する通訳者に仕事が流れてしまうのではないか、という懸念もあります。その点、私は、翻訳者から学べることが多いと感じています。翻訳者の方々は以前から、地理的制限のない市場で活躍され、仕事の質や評判、専門性の確立、人的ネットワークなどで依頼を獲得されてきたと思います。通訳の世界でも、業界全体が大きく揺らいでいる今の不安定な状況において通訳者同士のネットワークが強化され、私も、RSIのコツから自宅での通訳に使える最新の機器まで、先輩通訳の方々に多くのことを教えていただいています。

最後に、オンラインのセミナーやイベントといった場でも、通訳と翻訳の距離が縮まっていると感じます。私は昨年末まで、日米関係の強化に携わる非営利団体で働いていました。対面のイベントや人物交流ができなくなった今、そういった組織は、活動をオンラインに移行する中で、コンテンツをいかに日英の両言語で提供するかについて、いろいろな工夫を行っています。Zoomを使ったセミナーにその場で逐次・同時通訳を入れることが多いですが、事前にセミナーを録画し、後から映像に字幕をつけることもあります。また、字幕は作成に時間がかかるため、事前に録画した映像に同時通訳を付けて保存するもの、イベント開催中にリアルタイムでキャプションを打ち出すものなど、これまでにないクリエイティブな対策も散見します。9月7日号のニュースレターで、堀田副学長は、「メディア翻訳は翻訳と通訳の領域にまたがっている」と指摘されましたが、まさにそういった領域横断的な仕事が増えてきています。字幕翻訳は、限られた字数の中、分かりやすさを重視した意訳も必要で、パズルのような楽しさがあります。映像の同時通訳が永久に保存されることに私はまだ少し抵抗を感じていますが、オンラインのイベント増加に伴いそういった機会は増える可能性があるため、今後選択肢の一つとして考えたいと思っています。リアルタイムのキャプション翻訳についても、口頭の同時通訳以上に難しいのではないかと感じ、打ち間違えることを懸念して辞退しましたが、そういった照会が複数の組織からあったため、今後通訳・翻訳の一つの新しい手法として広がる可能性はあるのかもしれません。

変わりゆく世界で活動を続けるために、専門性を高めつつも、新しい傾向やツールを柔軟に学んでいきたいと感じています。数年前には考えられなかったRSIがたった半年で一般的になったように、複数の言語でコンテンツを提供する方法が、あらゆる意味で大きく変わってきています。RSIのプラットフォーム、字幕のツールなど、語彙や時事問題以外にも勉強内容が増えましたが、もともと好奇心旺盛な通訳者や翻訳者にとっては、楽しい変化でもあるのではないかと思います。コロナが収束すれば対面の仕事はある程度戻ってくると思いますが、恒久的な変化もあるでしょうし、今身に付けたスキルは、今後も役に立つと確信しています。

Black Lives Matterをめぐる言葉の考察

英語の概要(日本語の本文が続きます):

“Thoughts on Wording Surrounding the BLM Movement”

Some of the phrases we have been hearing in relation to the BLM movement are difficult to convey in Japanese, and I wanted to really sit down and look into them. Here’s a Japanese blog post that explores some key phrases–what “Black Lives Matter” means, why we ought not to say “All Lives Matter,” how “defund the police” could be interpreted, and the difference between “Black” and “African American”–based on what I thought and learned from friends and other articles.
ワシントンDCの市長が命名したブラック・ライブズ・マター・プラザとそこで抗議する人々(2020年6月)

2020年でこれまでにないほど大きな動きとなっているBlack Lives Matter。今年の抗議が始まって3週間以上経ちますが、その波紋は広がるばかりで、今度こそ、全米、ひいては世界で画期的な変化につながることを期待しています。

日本語でもこの動きを解説する多くのリソースがあり、黒人でない私に更なる説明を行う資格はありません。しかし、報道等では伝わりづらい表現や言い回しがいくつかある気がしますので、言葉に焦点を当てて、 自分が今回考えたことや学んだことを少し述べたいと思います。

Black Lives Matter

このフレーズは非常に訳しにくく、日本の報道においても様々な表現を目にします。

まず、直訳して「黒人の命大切」という表現を使っている報道を多く見受けます。ただ、「は」は、他の方の命は大切でないような、排他的なニュアンスがあると思います。そういった意図はこの動きにありません。SNSなどで流れている以下の画像がうまく説明していると思います。(下記のAll Lives Matterについての箇所もご参照ください)。

SNSより:「『Black Lives Matter』と言っている私たちは、黒人の命だけが大切だとは言っていません。すべての命が大切だということは分かっています。ただ、黒人の命が危険に晒されているため、Black Lives Matterの動きで皆さんの支援が必要なのです。」

「黒人の命大切」としている報道もあります。こちらの方が、実際のニュアンスに近いです。この動きを説明している英語の記事や本でも、口にはされないtooがあるのだと説明したり、括弧書きでBlack Lives Matter (Too) としたりしています。ただ、ハフポスト日本語版が「黒人の命も大切」と訳したところ、黒人の人たちが受けている差別を矮小化しているという意見もあったそうで、これもご指摘の通りだと思います。ここからは個人的な見解ですが、英語でtooを付けないのには、黒人の命が他の命と同等であるべきだからこそ、追加的に言わなければならないことではない、という意図があると思います。したがって、口にされていないtooを日本語で付けてしまうと、誤訳になってしまうのです。

「は」も「も」も違うのであれば、「が」を使うべきなのでしょうか。それぞれの助詞を使って「黒人の命〇大切」で簡単なウェブ検索をすると、「は」約33万件、「も」約19万件に対し、「が」はわずか4万件しかありません。正直、少し唐突に「が」を使っているような、文法的に不自然な感じは否めません。

個人的には、答えはmatterと言う言葉にあると思います。ここで「大切」と訳されているこの言葉は、より広く使われる important(重要)やvaluable(貴重)とは異なる意味があります。Matterという言葉は、「事柄として考慮すべき」という意味で、一見、importantやvaluableほど強く聞こえませんが、それは使われる状況が異なるからです。後者二つは、相手が特に先入観のない、白紙状態の会話で使われ、0からプラスの状態に持ち上げます。他方、matterは、相手が大切だと思っていないことに関して、「実は大切なんです」と訴え、マイナスの状態から上げていく言葉です。Matterが名詞としては「物質」や「案件」などを意味することを考えると、動詞としても「存在してないと思われていることが存在している」という意味が込められていると思います。黒人の方の命は、これまで軽視されてきました。400年前にアフリカから連れてこられた時から、奴隷として働いた時も、公民権運動の前も、その後もずっとです。あの警官はジョージ・フロイドさんを人間として見ていないから、首を膝で押さえつけたりすることができるのだと思います。したがって、Black Lives Matterは、「これまで軽視されていた黒人の命は大切」と言う意味になり、そこまで書き出すと、「は」が排他的に聞こえなくなります。(6月20日追記:背景も含むとこのような形になりますが、この長い言葉が最適な訳だと提案しているわけではありません。たとえば、こちらのNHKの記事には、より自然に聞こえる意訳がいくつか提示されています。)

こういった意味をすべて、Black Lives Matterというシンプルな3つの単語、抗議でも唱えやすい4つの音節に凝縮しているのはすごいことだと思います。正確な訳に関する議論は今後も続いていくでしょうが、これだけ大きな動きとなった以上、もはや毎度無理に訳さなくてもよいのではないかと思います。ニュアンスが一度伝われば、カタカナが一番誤解を生まずにすむかもしれません。また、そのような形で日本における外来語として皆に認識してもらった方が、日本においても着目すべき概念だということがより伝わるのではないかと思います。「命が大切」という、当然であるべきことを、わざわざ大々的に言って抗議しなければならない...それほど事態は深刻です。

All Lives Matter

日本語の記事や投稿がいくつか解説していますが、残念ながら、All Lives Matter(すべての命が大切)という言葉は適切ではありません。正直、初めてAll Lives Matterと言う言葉を聞いたときには、黒人でない自分も含まれている気がして、私も少し嬉しくなりましたが、その後この言葉に関する多くの解説を見て、それが間違いであることに気付きました。

前述のように、Black Lives Matter の言葉に排他的な意図はありません。「すべての命が大切」なのはいうまでもないのですが、黒人の命は軽く扱われてきたからこそ、こういった運動で黒人に特化した言葉ができています。そもそも、matterの意味を踏まえると、恵まれている人も含む「すべての命」とはそぐわないことが分かります。Black Lives Matterと同じ言葉を使って真似しているものの、その言葉の重みは考慮できていないことが明らかです。

今では、All Lives Matterという言葉が、せっかくのBlack Lives Matterを無に帰す、黒人の方に対して無神経な言葉だと言われています。All Lives Matterを口にする人には、善意から、黒人でない自分も動きの一部になりたいという方や、分断をなくし命の大切さを皆で一緒に語ろうという意思がある方も多いと思います。White Lives Matterという看板を持って練り歩く白人至上主義者とは全く異なります。しかし、このように、今の状況下ではAll Lives Matterと言う言葉はネガティブな意味合いを持ちます。

SNSで使われていた別の画像も添付します。黒人の人々が苦しんでいるときに言うべきことではなく、ましてや、彼らが経験してきた差別を知らない私たちが言うべき言葉ではありません。

SNSより:「もし私の妻が、明らかに苦しんでいる状態で『私のこと愛してる?』と聞いてきたら、『皆のことを愛してるよ』と返すのは正確な答えかもしれませんが、その状況においては残酷であり、彼女を傷つける言葉です。もし私の同僚が、明らかに落ち込んでいる状態で『父親が死んだばかりなんだ』と言ってきたら、『誰の親でも死ぬよ』と返すのは正確な答えかもしれませんが、その状況においては残酷であり、その同僚を傷つける言葉です。友人が明らかに苦しみ、傷ついた状態で『Black lives matter』と言ってきたら、『すべての命が大切だよ』と返すのは正確な答えかもしれません。しかし、この状況においては残酷であり、その友人を傷つける言葉なのです。(ダグ・ウィリフォード作)」

別の例としては、こちらの漫画もあります。複数の家が並んでいる中で一つ燃えているとき、すべての家に放水するのは無意味なことですし、燃えている家への対応が遅れます。なお、この漫画は2014年のものです。その時から既に、もう6年も、All Lives Matterという言葉に対する説明がなされており、米国ではその認識がかなり浸透してきたように思います。今回、Black Lives Matterが世界全体に広がり、それとともに、悪意のないAll Lives Matterと言う言葉がまた人々の口に上るようになってしまったのかと思います。しかし、私たち個人がどれほどポジティブな形で解釈したとしても、それを今言うことは、黒人の方々の動きに水を差してしまうことになります。

Defund the Police??

抗議の次のステップとして、警察を今後どうしていくかということも話し合われています。スローガンとしてdefund the policeという表現が頻繁に使われていますが、このdefundという言葉は、米国で大きな物議を醸しています。英語でもほとんどの人がこれまであまり馴染みがなかった言葉(このブログを書いているワードプレスでも、スペルチェックに引っ掛かります)であるため、各々が異なる解釈を行っているのです。

CNNアトランティック誌ヴァイスなどの多くのメディアが、defund the policeが何を意味するのかという分析を行っています。アトランティック誌の記事の見出しは「『Defund the police』という言葉は、defund the policeという意味ではない。ただし、そういう意味の場合もある」(副題:「文字通り解釈すべきなのか?」)です。この言葉がどれほどの混乱を招いているかをよく示していると思います。

主要メディアに加え、オンラインの辞典であるdictionary.comも本件に関する記事を出しています。それによると、defundと言う言葉の定義は、to withdraw financial support from, especially as an instrument of legislative control(法的統制のツールとして、財政支援を止めること)とあります。また、「多くの活動家や研究者、一部の政治家によれば、defund the policeは、『お金の力を使って、これまでの漸進的な変化では達成できなかった制度的改革を行う』と言う意味」だとも書いています。

最初にこの言葉を聞いたとき、私は、資金停止はとどのつまり解体だということだと思い、あまりに極端だと思いました。実際、解体と言う意味で使っている活動家もいます。しかし、これらの記事を読んだり人の話を聞いたりすると、「政府やコミュニティ内に置ける資金の再分配」を指して使っている人が大半のようだということにも気付きました。何に分配するかというと、たとえば、上記CNNの記事で引用されているBlack Lives Matterの動きの共同創設者は、「これまで資金を取り上げられてきた黒人のコミュニティに投資し、これまで警察が対応してきた人たち(心の病やDVに苦しんだり、家がなかったりする人)に対する福祉サービス、学校や病院、住宅や食料の供給に使える」としています。中道派のバイデン大統領候補など、それも抜本的過ぎると考える人もいますし、賛成派の間でも、具体的に何に投資するかで意見が分かれることが容易に想像できます。こういった諸々の意見を踏まえ、警察を持つ自治体や政治家が、各々の対応を検討しているようです。

それにしても、もう少しいいスローガンはなかったのでしょうか。皆が合意できない言葉と言うのは、活動や抗議をしている人たちを分断させますし、それぞれの自治体においても、人々との話し合いに苦労するだろうと思います(フロイドさんを殺害した警官が所属するミネアポリスの警察は、いち早く本当に解体されることとなりましたが、ここまでの対応はなかなかないと思います)。私の知り合いには、demilitarize (非武装化)という言葉を使うべきだという人もいます。資金の削減が警察の武器を減らすことにつながるなら、今回まさに問題の一つとなっている警察の武力行使(フロイドさんはじめ黒人の方々のみならず、抗議者に対しても)をなくしていくことになるため、私もそれはいい案だと思います。

Black Lives Matterは、黒人が米国の警察に何度も殺害されていることに対する抗議運動として端を発したため、各地における警察の見直しは、大きな進捗だと言えます。黒人の親が子供に必ず警察への対応の仕方を教えなければならず、特に男性の命が危険に晒される状況には、本当に心が痛みます。他方、制度的差別があまりに根深く、社会のあらゆる側面に浸透しているため、目の前の具体的な問題(警察のことのみならず、南北戦争で南軍を率いた人々の像の撤去など)で進捗があっても、より大きな問題はなくなりません。今後論点がずれていったり、象徴的な進歩で大きな目標が見失われたりしないことを願っています。

BlackとAfrican American

Black Lives Matterの中心にあるBlackという言葉。恥ずかしながら、私は先日までこの言葉がAfrican Americanと同じ意味だと思っていました。正直、Black はもともと肌の色から来た言葉なので、自分がyellowと呼ばれたら嫌なように、その言葉自体、黒人でない私は言ってはならないのかと思っていました。また、子供の頃、正しい表現はAfrican Americanだと習った覚えがあったため、そちらを使うよう努めてきました。でも、これも間違いでした。

黒人の友人と話したところ、アフリカから移民してきたばかりの人はAfrican Americanと呼べるかもしれないが、自分のアイデンティティはBlackだと説明してくれました。先祖を辿って、アフリカから来たらしいということは分かっても、具体的にいつどこからといった詳細は分からず、個人的にアフリカとの絆を感じないとのことです。更に、黒人にはアフリカ以外の場所(たとえば西インド諸島)から来た人も、アメリカ人ではない人もいるため、そういった人たちも含めることができるBlackという言葉の方が包括的なのだそうです。(別の人が作成したこれらの画像も、この二つの言葉の違いをうまく説明していると思います。)

African American の方が正しい言葉なのかと思った、と友人に説明したところ、世代間のギャップはあるとの話でした。つまり、公民権運動を経験した彼女のご両親の世代は、黒を意味する差別的な古い言葉「ネグロ」から距離を置くため、African Americanを使っているそうです。若い世代の方がBlackという言葉に共感を覚えるのだそうです。

この話からいろいろと考えさせられました。私はアジア系アメリカ人としてのアイデンティティを持ち、日系人全体が比較的新しい移民だということもあって(日本からの最初の移民「元年者」は約150年前に来ました)、マイノリティのアメリカ人は皆「〇〇系」と呼べると勘違いしていました。黒人の方は、人によっては先祖が米国に来たのは400年前ですし、アフリカと距離があるのは当然ですよね。また、世代間のギャップや、自分が子供の時受けた教育と状況が異なることからも、言葉は生き物だということにあらためて気付かされました。

今私たちは、歴史的な動きの渦中にあると信じていますし、自分に何ができるかと考える日々が続いています。言葉という観点からも、これらのものが今後どのように進化していくのかを見続けたいと思います。

ブラック・ライブズ・マター・プラザに大きく書かれたBlack Lives Matterの言葉の冒頭の部分。

7-Day Book Cover Challenge (Day 6): “Book from the Ground”

Introduction:

This bilingual post was originally written for social media, and is part of the “7 day book cover challenge.”

「7日間のブックカバーチャレンジ(6日目):『Book from the Ground (地の本)』」

この投稿は、もとはSNSのブックカバーチャレンジのために書かれたものです。英語の本文の後に日本語が続きます。

The cover of “Book from the Ground“–which is very brief and to the point, literally! By the way, I found out while working on my master’s project that this man is called “Helvetica Man” 🙂

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The sixth book is Book from the Ground by the Chinese artist Xu Bing. This is a novel that’s written entirely in pictograms! I love pictograms so much that I wrote my “master’s project” (the equivalent of a master’s thesis at my journalism grad school; essentially a long article meant for publications in magazines) on it.

I feel very lucky to have learned about Xu Bing from my dear friend Kieu, an artist who also loves languages. I was fascinated by Bing’s renditions of English words that are made to look like Chinese characters. Then, a few years after, Bing happened to come to my grad school to speak–and that’s how I learned about this book, which he was still writing at the time. 

From inside “Book from the Ground.” By the way, the exit sign (on the left page) was invented by a Japanese individual!

The back of the book contains Bing’s quote that says: “Twenty years ago I made Book from the Sky, a book of illegible Chinese characters that no one could read. Now I have created Book from the Ground, a book that anyone can read.” Indeed, the pictograms make the story accessible–but I also find that it takes a lot longer to read! The story is essentially about a day in the life of one man, and has lots of humor (including slapstick bathroom humor).  

I’d always been fascinated by kanji, and love how they are essentially little pictures. They are so concise in conveying meaning. I especially love the series of characters that belong to one family, like fish names (who *hasn’t* tried to read all the characters on tea cups at sushi restaurants??), tree names (like fish, you can kind of guess what “hard tree,” “white tree,” etc. each refer to!), and types of weather (especially poetic with the droplets in the “rain” portion). 

From the exhibit “Chinese in the Information Age” at the Museum of Chinese in America (February 2019), a panel that shows how the character for “mountain” evolved over time

When I attended Bing’s lecture, emojis were just becoming popular. Facebook wasn’t as big, Twitter was just gaining traction, and Instagram didn’t even exist. But texting was huge, and lots of shortened words (like LOL and TTYL) were being used. I began to wonder if that was the direction were going–will words continue to be shortened, eventually giving way to pictures? I talked about this with my advisor and fellow advisees, and one of the advisees pointed out that letters like hieroglyphs came from pictures–so perhaps we were actually coming full circle.

I really, really, really enjoyed working on this master’s project. I got to interview lots of designers, including the designer of the sports icons of the Mexico City Olympics (1968), and a designer who was commissioned by the Department of Transportation to create airport pictograms (the first of its kind, including bathroom signs). I also got to interview other professionals, including a computer programmer who crowdsourced the translation of Moby Dick into emoji, as well as the founder of an NPO that facilitates virtual communication among children all over the world using emoji. (I didn’t get to meet Bing himself, but visited his studio in Brooklyn, where his assistant provided me with many resources.) Some showed me drafts of their designs, and many welcomed me into their home, reminiscing about their past projects or sharing their ideas for the future. Others were kind enough to meet me for tea–on one occasion at a station in Tokyo, when they were about to jump on a bullet train to go home for the holidays.    

It is truly one of my biggest regrets in life that, while I submitted this article to my school, I did not get to publish it in a magazine. While I was pitching it, I was very excited that one major magazine that I’ve always loved expressed interest–but they asked that it be cut to 300 words (less than 1/20 of its length). I felt that was too short, and while I was being indecisive, I missed my timing. Now I fear it is too late, since the interviews were done ten years ago. I think back to all the kind interviewees who were generous with their time–especially the then-79-year-old designer who not only picked me up at a train station and drove me to his house, but gave me a two-hour long interview over tea, kindly brought out his hand drawn designs, and even gave me a rare copy of a poster that has his pictograms. I would still very much like to revisit this project, especially to repay his and other interviewees’ kindness.

Anyway, I continue to be fascinated by kanji, emoji, and pictograms, and look forward to exploring this topic more!

At a special exhibit at the Museum of Applied Arts in Vienna (May 2019). I love the beautiful waves!

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6冊目は中国人アーティストの徐冰(Xu Bing)による 『Book from the Ground(地の本)』。すべてピクトサインで書かれた(描かれた?)素敵な本です。

私は子供の頃から漢字が大好きです。割れた卵にそっくりな「卵」や木がたくさんある「森」は小さな絵ですし、「雪のように白い魚=鱈」、「堅い木=樫」のように、ちっちゃいスペースにたくさんの意味を詰め込んでいる字も素晴らしい。友人を通じて徐冰のことを知ったのですが、彼は、アルファベットを漢字のように書いたりして、もとからよく字で遊ぶアーティストのようです。

私が大学院にいた時に徐冰が講演しに来たのですが、その際に知ったのが、当時まだ執筆中だったこの本。そこで私もすっかりピクトサインに魅了され、それを修士論文(といっても、ジャーナリズムの大学院なので、雑誌に載せることを意図した長文記事です)のトピックにしました。ちょうど絵文字の人気が出始めたころだったので、どんどんコミュニケーションが短く速くなっていく中、言葉はどんどん絵に取って代わられるのかを調べたいと思いました。

I thought this sign was hilarious and so straightforward! I’m sure Bing (whose book includes bathroom humor ?) would love it! (Found in the streets of Vienna, May 2019)

修論を書く過程はものすごく楽しいものでした。メキシコシティ五輪のスポーツのアイコンをデザインした方をはじめ、多くのデザイナーと話す機会があり、他にも、クラウドソーシングで『白鯨』を絵文字に翻訳したプログラマーの方、絵文字を使って国が異なる子供たちにコミュニケーションを促すNPOの代表の方もインタビューする機会がありました。

今悔やまれてならないのは、修論を学校に提出した後、雑誌に投稿することができなかったということです。300ワード(全体の20分の1以下)に縮めたら検討してもよいと言う雑誌もあったのですが、あまりに短いので悩んでいるうちにタイミングを逃してしまいました。インタビューした方々は本当に優しく、今でも思い出して一番胸が痛くなるのは、運転して私を駅まで迎えに来てくださり、ご自宅で2時間以上インタビューに応え、自分がデザインしたピクトサインの珍しいポスターまで下さった、当時79歳だったデザイナーのおじいさまのことです。論文が書かれてちょうど10年経ってしまいましたが、彼のため、そしてインタビューに応えてくださった多くの方のためにも、いつか何らかの形で世に出せることを心から願っています。

At the National Archaeological Museum in Athens (May 2018). I would love to learn more about Egyptian hieroglyphs at some point!

7-Day Book Cover Challenge (Day 5): “Patchwork Girl”

Introduction:

This bilingual post was originally written for social media, and is part of the “7 day book cover challenge.”

「7日間のブックカバーチャレンジ(5日目):『Patchwork Girl (パッチワーク・ガール)』」

この投稿は、もとはSNSのブックカバーチャレンジのために書かれたものです。英語の本文の後に日本語が続きます。

The fifth piece is Patchwork Girl by Shelley Jackson. This is actually not a book–it’s a “hypertext,” a type of interactive literature that is read on a computer. I encountered this work in a contemporary literature class in college, and continue to be inspired to it today.

Patchwork Girl is about a female version of Frankenstein’s monster, assembled from pieces of multiple corpses. It is very much a feminist piece, focusing on a lesbian figure who takes matter into her own hands. It is worth noting that the original Frankenstein was written by a woman. It is so cool that, while contemporary women writers in the 18th century (who I also love!) wrote about romance and witty conversations over tea, Mary Shelley wrote about human nature and industrialization–and invented the genre of science fiction. Still, the bumbling Frankenstein’s monster who cannot find a mate is very tragic and awkward to read about–and a lot less sexy than other characters of Gothic literature like Dracula, Mr. Rochester, and (while better known for their appearances in films) werewolves. Patchwork Girl empowers this figure, making her a strong and independent woman.

Patchwork Girl is like an allegory, where the various body parts sewn together are parallel to the pieces of text connected through links. In hypertext fiction, instead of pages, passages of text come up on the computer. Links are embedded in the passage, and when the reader clicks on any of them, the next passage appears in a box. But the links aren’t underlined, so it’s never clear where the links are. And unlike on a website, there is no back button or home button. There is no way to skip to the end, so readers are literally lost in the story. Patchwork Girl takes full advantage of this medium. There are scenes where the main character takes a bath with her girlfriend, and the seams come apart–and when she comes out of the bath, it’s not clear whether she’s still herself or has somehow merged with her girlfriend. The main character “dies” (although she is made of dead body parts to begin with) in one passage, but is somehow resurrected in another. These things would not make sense in a linear story–but magically, Jackson makes them work in this nonlinear medium.

I really enjoyed this special exhibit (2017) at The Rosenbach in Philly, which celebrated the 200th anniversary of “Frankenstein”

Ever since I read this, I’ve wanted to create interactive fiction. To me, they seem more natural than books and parallel to how the mind works, like endlessly clicking from one Wikipedia article to another. But there are some big challenges. The first is storytelling: I’ve found that it’s difficult to add depth to characters–or even have more than a few characters, since the story becomes so confusing. (Indeed, this article, which calls it “the failure of futurism,” says that hypertext fiction didn’t take off because they are too hard to write.) The second challenge is technology. In earlier attempts, I was very frustrated by how inaccessible this genre was–hypertext had to be read and written in a specific medium called Storyspace. I thought about putting it online, but thought the back button made things too easy for readers. Now, things are somewhat easier because of apps and websites like Twine.

Personally, I think a biggest challenge is that they’re often a difficult experience for readers. As a child, I didn’t really enjoy reading “choose-your-own-adventure” books, mostly because the characters seemed flat, and the stories were less exciting than linear books–so much attention was paid to making it interactive, that everything else fell behind. And even the experience of reading Patchwork Girl was an intellectual exercise. It was sometimes scary and frustrating to not know where I was in the story, and constantly making decisions ended up being a bit taxing, because even though I was given control in choosing the next step, I didn’t have enough control to know the outcomes of each step. But after I finished reading it, and explored what Jackson has said about her own work, as well as various research done on non-linear narratives and feminism, including Judith Butler–that’s when everything came together. It really was a piece of art that gradually came into focus, rather than a quick and entertaining read.

I’ve put a pause on trying to write interactive stories, because I’ve realized that I first need much more practice in writing linear stories. Still, I hope I can one day challenge myself to create an interactive piece of fiction that is thought-provoking and satisfying to the reader, lingering in their memories for years, like Patchwork Girl has for me.

Part of the exhibit on “Frankenstein.” Mary Shelley was truly a cool figure, the sole woman in a group of male writers!

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5日目は『Patchwork Girl(パッチワーク・ガール)』。本当は本ではなく、ハイパーテキストという名の、コンピューターで読むインタラクティブな作品です。大学の時に現代文学のクラスで出会った、憧れの作品です。

フランケンシュタインの話に基づいて、いろいろな死体から身体のいろいろな部分を縫い合わせて作られた女性が主人公です。『フランケンシュタイン』自体、SFのジャンルを作ったと言われる女性(メアリー・シェリー)が書いたという意味で画期的ですが、そこに出てくるモンスターは物悲しく、精神的に弱い部分があります。『パッチワーク・ガール』では、自分の身体の状況をものともせず、自由に行動するかっこいい女性となっています。

ハイパーテキストでは、画面上にページの代わりに箱が現れ、そこに書かれた文章を読んでから、文章の中に埋まっている複数のリンクのうちの一つを選んで、次に進みます。リンクに下線がないのでどこがリンクか分からないし、ウェブサイトと違って、前のページやホームページに戻ることもできません。そういう場に、『パッチワーク・ガール』はまさに適しており、縫い合わさったバラバラの身体の部位がリンクでつながったバラバラの文章を象徴しています。また、主人公が死んだり(身体は死体から来てますが)生き返ったり、身体の一部がぽろっと落ちたりまた拾われたり、そんな不思議なお話が、本だったらわけがわからない状態なのに、こういったノンリニア(非線形)ナラティブではなぜかとっても納得がいくのです。

これを読んだ時から、私もインタラクティブなお話に強く憧れています。人間の考え方は、無理やり直線的に整理された本よりも、ウィキペディアの記事のリンクを次から次にクリックするような感じで、連想で成り立っているように思います。正直、こういう話はものすごく書きにくいだけでなく(何度か試しましたが、話の流れに気を取られてしまって、登場人物の性格に深みを持たせることができません)、読み手にとっても楽しみにくい(今自分が話のどこにいるのかも出口も見えず、決断ばかり求められることに疲弊する可能性があります)のが大きな障壁です。でも、まずは直線的なストーリーを書いて練習しつつ、いつかは、読み手にとっても思い出に残るようなインタラクティブなお話を書いてみたいと思っています。

An interactive book (of more than 400 pages!) based on “Romeo & Juliet.” It has more than 100 possible endings!

7-Day Book Cover Challenge (Day 4): “Theories of Modern Art”

Introduction:

This bilingual post was originally written for social media, and is part of the “7 day book cover challenge.”

「7日間のブックカバーチャレンジ(4日目):『Theories of Modern Art(近代美術の理論)』」

この投稿は、もとはSNSのブックカバーチャレンジのために書かれたものです。英語の本文の後に日本語が続きます。

The fourth book is “Theories of Modern Art” by Herschel Chipp, who was an art history professor at UC Berkeley. I encountered this book as a college student, when it was assigned in a class about the history of modern art. It’s full of primary sources: diaries, letters, and statements by the artists themselves. Despite the somewhat boring name, it’s a really fun read!

The following are works by some of the artists who show up in the book (in roughly chronological order). They’re paintings I happened to encounter, and not works that were mentioned in the book–or even the most representative work of each artist! This is “Postman Joseph Roulin” by Van Gogh, at the MFA in Boston. In the 2017 movie “Loving Vincent” (which, incredibly, was animated using handdrawn paintings that emulated Van Gogh’s style!), the main character is the son of this postman.

My parents are avid museum visitors, and ever since I was a child, I had the chance to tag along. We were most often in the sections with Renaissance art. In my childish mind, they were easy to understand as art that captured a moment in real life. We enjoyed the beautiful colors and nature represented in Impressionism too (although in my youth I believed the rumor that Monet’s style came from his bad eyesight, and questioned the point of Pointillism (so much work!)). But I just never understood modern art after Impressionism, and that frustrated me. So I decided to take a class about it in college–and boy, was that the best decision ever!

In the Waves” by Gauguin, at the Cleveland Museum of Art. Whenever I see Gauguin’s Tahiti paintings, I have mixed feelings of nostalgia/familiarity (the scenes and clothing are reminiscent of Hawaii) and a vague annoyance at a white man’s portrayal of what he saw as an exotic culture. So I really like this painting that’s a bit different from his style, depicting a white woman (this was apparently two years before he left for Taihiti), and putting much more emphasis on color and composition than showing a different culture. The contrast of the green waves and red hair is so beautiful, too!

Starting with Post-Impressionism, this book progresses through movements like Cubism and Surrealism, ending with “contemporary” (as defined by when the book was first published (1968)) art. These letters and diary entries explain in detail what each artist aimed to achieve in their work, what materials they used, why they changed their style over time–and even their personalities. Van Gogh’s renowned letters to his brother about his artistic and financial struggles are heartbreaking. Picasso’s statement on “Les Demoiselles d’Avignon” is enlightening. Many artists’ lives are integrated with history, like WWI and nationalism. A couple of artists are so passionate that they seem rather self-absorbed–I recall one artist writing in his diary something like, “When I took a break from painting, I noticed that my wife had come and gone, leaving me dinner” (all the artists in the book are, inevitably, male and white).

Henri Rousseau’s “Fight Between a Tiger and a Buffalo,” at the Cleveland Museum of Art. I was amazed to learn that Rousseau had never seen a jungle–or even left France! I also like his style that somehow makes jungles appear two-dimensional.

Now these artists have become some of my favorites–so much so that when I go to museums, I rush to the modern art wings first. Some I just enjoy because of their visuals even if I still don’t understand them (Klee, Miro), and some I admire for their chameleon-like transformation over time (Picasso, Kandinsky). It is fun to recognize their names and style, read the descriptions, and interpret the emotions they were expressing. I find that there’s so much depth, and that the more I stare, the more there is to discover.

Woman in a Purple Coat” by Matisse, at the Museum of Fine Arts in Houston. This woman is so stylish and could totally be an amazing fashion magazine editor today!

Thanks to this book, I have a much better appreciation for modern and contemporary art in general. I also have a better understanding of how crucial primary sources are in the field of research. In combination, they are even more powerful, fulfilling the artists’ desire for expression and enriching the viewers’ lives at the same time. For now, I’m enjoying these photos from the past few years–but can’t wait to visit museums in person again!

Tre Croci-Dolomite Landscape” by Oskar Kokoschka at the Leopold Museum in Vienna. I am not a big fan of Kokoschka’s style of depicting people, but his harsh strokes seem perfect for these mountains (and the very muscular horse!).

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4日目は『Theories of Modern Art(近代美術の理論)』。故ハーシェル・チップ(カリフォルニア大学バークレー校で美術史を教えていた教授)がまとめた本です。

Three Musicians” by Picasso at the Philadelphia Museum of Art. It seems like MoMA’s version is more famous, but I like this one more, because the musicians seem happier (the mustaches/smiles are so cute!).

私は、子供の頃から両親によく美術館に連れて行ってもらいましたが、主にルネサンス美術と印象派の絵画を見ることが多く、近代美術をあまり理解できませんでした。そこで、大学の時にあえて近代美術史のクラスを受講したら、とても面白く、大きく視点が変わりました。特によかったのが、画家の日記や手紙、アーティストステートメントといった一次資料を集めたこの本。どういう思いでそれぞれの絵を描いたのか、なぜ画家としてのスタイルが変わっていったのかということのみならず、第一次世界大戦などの時代背景や、画家個人の性格までが映し出され、読み物としてもとっても面白いのです。

Miro’s “Metamorphosis” at the Albertina Museum in Vienna. I still don’t get it, but I love the beautiful colors, and it’s so cute!

この本のおかげで、美術館巡りが大好きになり、行けばまず近代美術のところに直行するようになりました。ここで学んだり知ったりしたアーティストのみならず、近現代のアート全体をより広い視点で考えられるようになり、人生が豊かになりました。今はこういう状況ですが、この投稿に選んだ写真を見つつ、また美術館に行ける日を心待ちにしています!

Chagall’s “Sleeping Woman with Flowers” at the Albertina Museum. It is so interesting that the emphasis is on the flowers rather than the woman, as if to depict the contents of her dream.